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2019.05.27

カテゴリー:曰佐(おさ)住吉神社参拝

令和 大伴旅人 大宰府政庁 通訳 曰佐おさ住吉神社 参拝 祈願 福建住宅株式会社




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5月27日 月曜日 曇り
今朝も元気に出勤前、地元曰佐おさ住吉神社に参拝しました。祈願しました。




曰佐おさ住吉神社の由来が書いてある看板です。
ちょっとアップ



私は地元の曰佐(おさ)小学校出身です。曰佐の曰の漢字は日ではなく、曰くという漢字です。
小学校の頃に、「この曰佐は大宰府政庁のための通訳の人が住んでいた町で、上曰佐(かみおさ)に朝鮮、下曰佐(しもおさ)に中国の通訳の人が住んでいた歴史ある土地ですよ。」と先生に教えてもらっていた。
隣町の三宅(みやけ)が宮家で、今でいうところの税関の役目だったとも聞きました。

そこでちょっと調べてみました(^^)
令和の元号の引用元の万葉集で、太宰師(だざいのそち、大宰府の長官)として大伴旅人(おおとものたびと)が赴任してきたのが728年。
そして、令和元号の元になった「梅花の宴」が開かれたのが730年。
梅花の宴には、山上憶良(やまのうえのおくら)以下30余名の部下が集まっての歌会だったそうです。

大宰府政庁が出来たのが7世紀後半。
https://www.dazaifu.org/map/tanbo/tourismmap/7.html

では、曰佐の通訳の人々が活躍したのそのころかと思い調べてみた。
上曰佐には百済の通訳、下曰佐には漢の通訳がいたと書いてある。
百済は4世紀前半から660年というものと、紀元前18年から660年までとある。ネット調べなのでどっちが正しいか分からない。
百済は、滅亡後我が国に救済を要請し663年白村江の戦がある。我が国と百済が唐と新羅と戦ったものである。我が国は敗れる。
その結果、我が国は唐に攻め込まれる危険を感じ、大宰府の手前に水城(みずき)と呼ばれる城壁をつくるのです。
この水城跡、今でも普通に見ることが出来るので我々福岡の地元民としてはとてもなじみある歴史的建造物です。
https://www.dazaifu.org/map/tanbo/tourismmap/11.html
つぎに漢の通訳がいた下曰佐。
時代を考えると後漢だと思われる。
後漢、25年から220年。
さて、困った。
通訳の村ならば、その通訳を雇う組織が必要だと思う。
小学校の先生は大宰府政庁のための通訳と言っていたような気がする。なにせ48年前小学校2~3年生の時の記憶である。
当時通訳を必要とする組織は当然大宰府政庁だと思っていたら、大宰府政庁は7世紀後半(600年代)にできたらしい。
でも漢は220年まで。
百済も660年まで。
漢と百済の通訳がいた村なら、その通訳のみなさんが活躍していたのは200年ごろと考えるのが普通ですよね。
だとするとそのころは大宰府政庁はありません。
日本最初の書物である古事記が書かれたのが712年なので、200年ごろのことを詳しく調べるすべはない。
200年ごろの日本は、歴史を調べてみると弥生時代から古墳時代へ移行する頃。

そのころすでに天皇陛下はいるのだが、その権力はどこまで及んでいたのか?
はたして、日本は統一されていたのか?
また、時代からすると伝説の邪馬台国の時代と合致する。
通訳を雇っていたのは邪馬台国なのか?
で、邪馬台国は九州にあったのか?
本当に百済と漢の通訳だったのか?

う~ん、歴史って想像するだけでロマンがある。
地元の歴史って面白い(^^)

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